エカテリンブルクの名所を楽しむ散策ツアー「レッドライン」

エカテリンブルクの名所を楽しむ散策ツアー「レッドライン」

 

No.1 1905年広場 

(旧名称:教会広場、大聖堂広場、交易広場、メイン広場、事務広場) 

この広場は最も古い街の広場の一つで、現在はエカテリンブルクの主要な広場である。 「エカテリンブルク工場」が建設された当初、すでに広場は商業地区のエカテリンブルク工場側に存在していた。現在の名称は1919年に与えられた。1905年10月、集会において発生した「黒百人組」(訳者注:反ユダヤ主義を掲げた極右集団で帝政支持)とヤーコフ・スヴェルドロフ(訳者注:ユダヤ系ロシア人の革命家。ちなみに、1924年〜1991年の間、エカテリンブルクは彼を記念して「スヴェルドロフスク」という名称に変えられていた。)の一派との小競り合いの結果、人々は犠牲となった。この惨事を記念し、広場の名前は変えられた。 1954年、広場は現在の姿となった。未完成の迎賓館は、塔や鐘が鳴る時計、そして金メッキが施された尖塔を持つ5階建ての市議会の建物へと変えられた。これは「スターリン様式」の典型例である。 1957年には演台(1930年代に取り壊された大聖堂の代わりに作られた)が再建され、人々を前にして立つ、御影石でできた6メートルのレーニンが設置された。 3月8日通りを渡ると、市役所がウラル国立音楽院と接して立っている。18世紀、ここにはウラル地方から極東地方までのすべての工場を管轄していた機関である「ウラル山地工場総局」があった。市役所を背に立ってみると、レーニンの記念碑の左手に塔とゴシック様式の装飾を備えた赤い建物の壁に気づくだろう。これはエカテリンブルクの商人であり実業家でもあったドミトリーエフ兄弟の家である。建物の内部は完全に改装され、現在は商業施設である「ヨーロッパ」が入居している。近年の12月には、新年が近づく頃、1905年広場には新年の飾りであるヨールカ(訳者注:「ロシア版クリスマスツリー」のようなもの)や氷像の展示会、そして多様なアトラクションを擁する有名なエカテリンブルクの氷の町が開かれている。 

 

№2 

トゥピコフ邸

(現在:「俳優の家」) 

建築家:ユリウス・デューテル 

8マルタ通りにあるトゥピコフ邸は、1890年に建設された。邸宅の設計を依頼したのはシマノフ長官という人だったが、途中でウラル地区で非常に有名な採金業者だったステパン・トゥピコフ氏が建設中の建物を購入した。1897年に、既存の家の傍に、巨大な門と別館が増築された。結果としてそれは、都市住宅として使われていた一階建ての宮殿である。入り口にある鍛造庇には、亭主の紋章であるCTサインがあった。程なくしてトゥピコフ氏は死亡した。トゥピコフ氏の妻、エヴゲーニヤ・トゥピコヴァ氏は、独りになり、多くの子どもたちに囲まれるように、毎年、クリスマスの時に子どもたちのために舞踏会を開いた。現在の所有者であるロシア俳優連合も、昔の習慣を復活させようとし、「トゥピコヴァ邸でのお正月パーティー」と言われる昔風の演劇を開催している。 

 

№3 

エカテリンブルクアレクサンドル2世男子ギムナジウム 

(現在:第9号ギムナジウム) 

33、レニナ大通り 

建築家:カール・トゥルスキーアレクサンドル2世の名前に因んで名付けられたエカテリンブルク初のギムナジウムは、農奴解放令が発布された1861年に創立された。最初は鉱山学校の3階建ての建物の2階にあった。1879年に鉱山学校は移転し、ギムナジウムは内戦が起きるまで運営し続けた。 3階には、学生の寮があり、2階にはチャペル、教室、図書館、体育室、会議室と講師控室があった。また、1階には、事務室, 校長と司祭の住宅と寮の台所があった。内戦の時や、第2次世界大戦の時に学校の建物は医療施設として使われていたが、平和の時に科学や教育の殿堂であった。今でも、第9号ギムナジウムは、エカテリンブルクのトップ学校の一つとなっている。 2016年11月にエカテリンブルク初のギムナジウムは155周年を迎えた。 

 

№4. 

若年労働者の岸壁 

古代において、その素晴らしい岸壁は、複数の名称を持っていた:『第一ベレゴヴァヤ』、『第1の岸壁』。しかし、岸壁が男子ジムナジウムに属するジムから始まっていたから、『ギムナスティチェスカヤ岸壁』という呼び方が、特に固定化されてきた。  XIX世紀の前半においては、建築家のI.I.スビヤゼフとM.P.マラホブの努力により、岸壁は、古典様式を代表する立派な建築アンサンブルにより飾られた。それは、ウラル山脈の鉱業企業長の住宅、そして、プシェ二チ二コフ氏の住宅である。1845年には、岸壁が、花崗岩によって飾られ、首都風の様子となった。最高経営者の住宅の後ろには、様々な高さを持つ建物が、建設されていた。現在、その敷地内には、公園がある。公園の裏面には、ドラマシアター、そして、未だ建築作業途中である『エカテレンブルグ・シティー』というビジネス・コンプレックスのグラスファイバー製、未来派的な建築物が位置している。しかし、そのエリアには、一つの古い建築物は、現在までも保存されてきた。それは、1920年代、子供向けの作家と記者のアルカディイ・ガイダルの住宅だった、中二階のある、木造の一戸建てである。(ラボチェイ・モロデョジ通り、23丁目) 

 

№ 5 .  

歴史的スクウェア・ガーデン。 エカテリンブルグ市の中心部。街の歴史が始まったところでもある。『プロティンカ』という愛称を与えられたそのスクウェア・ガーデンは、市民の最も好きなところである。1721年1月には、イセティ川に位置していた、目立たないその所は、ピョートル大帝によってウラルに派遣された、V.タティシェブ砲兵大尉によって選択された。 V.タティシェブの熱意、そして、彼の交代者となったデ・ゲンニン少将の努力、そして、その周辺の農民とトボルスク市兵隊の兵士の極端な努力により、記録的な短期間で、つまり、1723年11月24日時点までは、その所においては、工場のダム、工場、様々な建築物、及びエカテリンブルグ市付属工場の要塞が建築された。 左記の建築物のうち現存するのは、ダムだけである。そのダムは、エカテリンブルグ市の最古建築物であり、歴史的スクウェア・ガーデン、特にその北境の「心」ともなった。そして、歴史的スクウェア・ガーデンの南境には、1840-41年代に、サトリウス建築家の設計で建築された、石橋、そして、ガラス製アトリウムによって飾られたエカテリンブルグ市の造幣局の建物(現在、芸術館)がある。その建物は、スクウェア・ガーデンにおける、最古の建物である。その建物は、1749年に建築された。 その建物の最重要な改築作業は、建物が芸術館としての役割となった時期、20世紀の80年代に行われていた。その時、建物の様々なパビリオンには、透明なドームがかけられた。その時に付けられたアトリウムは、唯一のカスリ市の鉄鋳物のパビリオンと鉄鋳物製芸術品の展示場を統一させていた。当パビリオンは、1900年、パリに行われた世界の産業展示会のため、特別に建築され、その時にグランプリと大金メダルを与えられた。現存する歴史的建築物の大部分は、『プロティンカ』の東境に位置している。 しかし、現在は、それらの建築物は、19世紀の中頃に営業していたエカテリンブルグ市の機械工場に属している。機械工場の背景には、給水塔、小型の鍛冶場とステーク・ホルダーの長い一階建が見られる。『プロティンカ』の西の方には、歴史的な建築物が保存されなかった。現在、それは、ある意味で、屋外の地質学博物館であり、それを囲む木の下には、種々の石が見つけられる:鉄鉱石、ピンクとブルー色の大理石、バラ輝石、花崗岩、バーミキュライト。歴史的スクウェア・ガーデンは、街の主な散歩地としての役割に限らず、エカテリンブルグ市の歴史、文化とリクリエーションセンターとしても、重要である。 

 

№6. 

給水塔 

レーニン大通り – ヴォエヴォーディナ通り 

給水塔は、1880年代に、機械工場と使用されなくなった造幣局のあった敷地にちょうどその時期に現れたエカテリンブルク鉄道工房に水を供給するために建設された。ペルミ- エカテリンブルク間を結ぶエカテリンブルク初鉄道は、1878年に敷設され、わが町の発展方向を大きく決めた。蒸気機関車を修理する目的として、鉄道本線の特別な支線が敷設された。その支線は当時、ヴォストーチナヤ通りから機械工房まで、ポクロフスキー大通り(現在、マーリシェワ通り)に沿って町の中心部を走っていた。六角形の給水塔の下の段は、花崗岩のブロックで作られ、上の段は、木造である。二段からなる土台の上には灯がある。給水塔は現在までほぼ創建当時のままを維持してきたので、エカテリンブルクのシンボルの一つとされている。 

 

№ 7 

V・N・タチシェフとV・I・ド・ゲーニンの記念碑 

P・チュソヴィーチン作 

町の設立者を記念する記念碑は1998年に、エカテリンブルクの建設を記念して建てられた。歴史を振り返ってみよう。1720年の3月にV・N・タチシェフが、山地工場の改善・発展を目的として、ウラルにやってきた。タチシェフはウクツースク工場の近くに住み始めたが、やがて、ウクツース川が浅くその工場には見通しがないことが分かったので、1721年の2月には、イセーチ川の上流で、新しい大規模な工場を建設するのに相応しい場所を選んだ。しかし、権力のあるデミドフとのトラブルが発生したので、鉱業管理委員会は突然、建設を許可しなかった。結局のところ、ニキータ・デミドフは、タチシェフを密告し、タチシェフは、それを理由に、1722年の8月に解任され、捜査の対象となった。以前オロネツク工場を経営した警察少将のV・I・ド・ゲーニンが、タチシェフの受け継ぎ者として、ウラルに派遣され、タチシェフが選んだ敷地において工場の建設を始めた。工場と新しい大規模な行政中心がド・ゲーニンの指導の下で設けられたのである。記念碑はモスクワ出身の彫刻家ピョートル・チュソヴィーチンによって作られ、専門家やエカテリンブルク住民によるそれに対する評価は、ばらばらで統一されていない。台に立っているこの像ニ躯は、帽子をかぶっているかいないかだけで違っているが、タチシェフとド・ゲーニンは、実際、お互い嫌いで、外見も結構違っていたそうである。エカテリンブルクの有名な郷土史家であるV•M•スルーキンの言葉を借りれば、「設立者の二人とも、顔が一番似ている自分たちの肖像画とは全然似ていないという立像の作り方は不思議です。顔は個性がない。衆民が、『宝箱から出てきた、二人のそっくりさん』と名付けたのはそのためではないでしょうか」ということになる。 

 

№8 

労働の広場: 聖キャサリンのチャペル 

ここには1726年に、この都市で最初の、そして最も尊敬されるキャサリン聖堂があったので、この場所はそのときからキャサリン広場と呼ばれていた。1920年代に聖カトリーヌ大聖堂は崩壊した。 1930年には教会は閉鎖され、その後破壊された。教会の鉄は、建設中のウラルマッシュ工場の鋳鉄工場の床面に模様を描きながら敷設された。1991年、かつての聖キャサリン大聖堂の位置を示すための追悼十字架をこの場所に設置した。祭壇が置かれた場所の近くに、五つのドームを持った、聖キャサリン礼拝堂が建設された。 2003年に、この都市の創設者ワシーリー・タチシェフの墓地から土を持ってきてカプセルに入れ、チャペルの中に置いている。労働の広場の南には、1930年代に建設された「旧地域委員会」、州の役所がレーニン通り34に建っている。ソ連の家、(これは元々の建物の名前であるが)この家は、ロシアの初代大統領ボリス・ニコラエブィッチ・エリツィンが彼の政治キャリアを積み始めたところで、この点で、注目すべき場所といえる。州の役所はスブェルドロフスクの中で一番大きなビルである。このビルは、コンストゥルクチービズムスタイルで建設されている。 1920年から1930年代にはこのスタイルの建物が流行していた。 

 

№9 

ゼロのキロメートル 

中央郵便局の前で記念看板 

レーニン通り、39 

華麗な建物である郵便局は構成主義様式の代表である。それはレーニン大通り39の所でソ連の家の真向かいにある。建物は1934年に建てられ通信の家(館)と呼ばれていた。構成主義者は自分の作品(建物)は永遠に強固(頑丈である、または完成された物、完璧な)と考えたが、生活の変化や時代のニーズに合わせて、作業機械を変化させた。郵便局を遠くからある角度で眺めると、トラクターに似ているように見える。万国郵便連合の推薦により、中央郵便局が町のキロ数の起点となっている。我が町の中央郵便局における道路元標は、スヴェルドロフスク州の地図で星として示されている。 

 

№10 

ラジオ発明者のポポフへの記念碑彫 

彫刻家エゴロフ 

1975年5月7日に建てられた記念碑はブロンズペイントで塗装された鋳鉄製の彫刻である。科学者はベンチに座ってラジオを聞いているように彫刻されている。記念碑のオープニングセレモニーでは、職員、産業企業、大学、ポポフの親戚、ラジオ・アマチュアと作家の記念碑の代表者に加えて、彫刻家エゴロフ、建築家P・D・デミンテフとエンジニアL・S・ドライジンが参加した。記念碑はラジオの誕生日に設置された。この日の80年前、ロシア物理化学会の会合で、ポポフは世界で初めてラジオ受信機を実演した。毎年5月7日にエカテリンブルク大学の学生がモニュメントの周りに「大掃除」を行い、祭の行列はレニン大通りに沿って、ポポフの記念碑の近くまで進行した。この伝統は1990年代後半に始まった。毎年祝典はより豊かで多様化してきている。この行列には最大4千人が集まり、花火やバルーンの打ち上げ、インターネット上でのオンライン放送が行われる。 1986年に、エポテルに因んで名付けられたラジオ博物館が、科学者が住んでいたエカテリンブルクの家でオープンした。彼の名前は、街の中心街の一つであり、ラジオ・エンジニアリング・カレッジも彼の名前を持つ。 

 

№ 13 

商人のタラソフのマナーハウス 

現在、スベルドロフスク地域の知事の邸宅 

ゴーリキー通り、21 

建築家マラコフ 

この都市における多くの商人のマナーハウスはエカテリブルグ市の特別な建築遺産の一つである。それは歴史的な市内中心部を形成している。タラソフの大邸宅は、本館、二つの別館とフェンスからなっている。今は多少建て替えられている。タラソフのマナーハウスはエカテリンブルグで最古の石像住宅の一つである。サッパ・タラソフはこのマナーハウスを1873年に購入した。彼が最初からの所有者ではなかったが、彼の家族と子孫は革命までここに住んでいた。タラソフ家は重要な一族であった。サッパ・タラソフの祖父と父は数回にわたり市長のポストについている。タラソフ家の子孫の中でサッパの孫、ピーター‣イワーノビチュが最も有名である。彼はサウナラール地域の金鉱採掘で富を得たが、エカテリンブルグで文化慈善活動に常に参加していた。1907年に彼は2363の硬貨のコレクションを博物館に寄贈している。今、このコレクションはスヴェルドロフスクの地域博物館の誇りとなっている。市の池の左岸はマナーハウスの最初の所有者の名前で革命まで呼ばれていた。ソ連時代には、タラソワのマナーハウスは教師の家になった。1997年にはタラソフマナーハウスが再建されて知事の住居として改築された。

 

№ 15 

全ロシアで輝ける諸聖人の名による血の上の教会 

トルマチョーワ通り、34番 

(スヴャトーイ・クワルタール、1) 

建築家: V・P・モロゾフ、M・Y・グラチョーフ、G・V・マザエフ元皇帝ニコライ二世一家の最後の拘留場所として選ばれたイパチエフ技師の館が70年代半ば頃まで存在していた跡地で建設された。ツァーリの家族がここで最後のイースターを迎ええ、奥さんと子供たちはここでニコライ二世の50歳の誕生日のお祝いをし、1918年7月16の夜から17日にかけて、この世の旅を終えたのもここ、イパチエフ館の地下室だった。1977年には建物が取り壊され、その跡地は、傍観者、観光客や少数の巡礼者を呼び寄せる荒地に変わった。1990年には、空いていた跡地で木造の記念十字架が初めて建てられた。2003年には、破壊されたイパチエフ館の跡地で、「全ロシアで輝ける諸聖人の名による」という、5個のクーポルを持つロシア・ビザンチン式記念教会の建設作業が終わった。下階の教会から上階の教会へは、23段からなる階段を登って入ることができる。23という数値は、皇帝ニコライ二世が在位した年数を意味し、地上階から「銃殺」の部屋があった地下二階に導いていた階段を構成していた段数も意味している。階段に沿って飾られている彫刻は、ニコライ二世とその家族を表しており、彫刻家K・V・グリューンベルグによるものである。 

 

№17 

スヴェルドロフスク州フィルハーモニー 

(過去に - ビジネスクラブの家) 

カール・リープクネヒト通り, 38A 

建築家:K・T・バビキン、G・P・バレンコフ、E・N・コロトコフスヴェルドロフスク州フィルハーモニーは

ロシア最古のフィルハーモニーの一つで、モスクワとレニングラードが栄えた後、ロシアの歴史舞台に登場する。その歴史的な建物からは、かつて実業家や商人のためのビジネスクラブとして計画されたことを想像するのは難しい事となった。ビジネスクラブは、1917年までにレコードタイムで建築家 K・ベビキンによって設計された。もともと実業や商人の為に建設されたクラブは、ソ連時代の社会的エリートや技術者、また、国民経済の従業員に、提供されていた。第一回目のコンサートからスヴェルドロフスク・フィルハーモニー管弦楽団は、都市一番のコンサートホールとしての地位を確立し、今日に至る。1973年からは、フィルハーモニーの本場であるドイツ制のオルガンが設置され、また、1998年5月には、「スヴェルドロフスク州フィルハーモニー」が「アカデミック」称号を授与した。フィルハーモニー管弦楽団は世界的に有名なウラルフィルハーモニー管弦楽団のメイン会場である。 

 

№19 

エカテリンブルク歴史博物館 元カチカ少将の家屋敷 

カール・リープクネヒト通り26 

1836年にカチカ少将により建設されたヴォズネセンスキー通りにある屋敷の外観(中二階と三角形の門先を持つ2階建の古典主義石造建物)は石切技術と宝石歴史博物館と似ている。両建物はマラホフ建築士により、ほぼ同時に建設されたため、外観が似ていることは驚きではない。カチカ少将の相続人たちはこの建物をあらゆる営利団体にリースしていた。そこで、各々の時代に、この建物には服屋、ソーセージ屋、ポクレヴスキ・コジェルの「ウラールのヴォッカ王」という飲屋やティホツカヤ氏の個人図書館があった。その後、この建物内にスヴェルドロフ氏が設立した不法党のプロパガンダ学校ができた。 1924年にエカテリンブルクはスヴェルドロフスクに市名を変更する名誉を得て、その記念に革命家が活動を始めた。カチカ少将もその一人である。彼は1940年に家の中にスヴェルドロフ氏の資料館を設置し、建物の内装をリフォームした。そして、1992年にスヴェルドロフ氏の資料館はエカテリンブルク市立歴史博物館となり現在に至る。 

 

№ 20 

第一街劇場の建物 

(訳者注:エカテリンブルグで初めて造られた劇場) 

レーニン大通り、43番地 

建築家カール・トゥールスキー 

この建物は1845年、伝説的な“山の司令官”(訳者注:正式名称はで、ウラル山脈一帯を治める長官。皇帝、元老院、財務大臣の命令にのみ従う。)であったウラジーミル・グリンカ将軍のイニシアチブによって建設されたが、「当初の要請に基づき、商業施設に転用される可能性がある」という条件付きであった。最初の演劇シーズンは『養子』というコメディーと、『脱走兵』というヴォードヴィル(訳者注:歌と踊りを交えた風刺的な短い軽喜劇)によって幕を開けた。役者たちは農奴から年貢として徴発されたが、これはとても秀でた俳優集団であった。その一部、プリマドンナ(訳者注:オペラの主役となる女性歌手)であったエヴドキヤ・イヴァーノヴナを含む役者たちは著名なロシア人作家イヴァン・セルゲーヴィチ・トゥルゲーネフの母に属していた。その後、エカテリンブルグの商人たちは初期の劇場の女優たちを農奴的従属から解放するための買戻金を集めた。この石造りの建物には1912年まで長らく劇場が存在していたが、1896年11月7日、この場所で、エカテリンブルグにおける映画上映の先駆けの一つが行われた。壁には映写機が備え付けられ、スクリーンが舞台の幕の場所に掛けられた。その1年後、映画は完全に人々をすっかり魅了し、1912年にはエカテリンブルグの住民であったヴォルコフが映画上映のために第一街劇場を賃借していた。そして1914年、街劇場は「コーリゼイ」という名称に変えられ、その後は現在に至るまで映画館として利用されている。 

 

№ 23 

レニン劇場 

レニナ大通り46 

建築家セミョノフ 

1898年にヂュテルという建築家は初めてこの建物の計画を作った。「スベトラナ」という次の計画はセミョノフによって作られた。1910年に建物の建設作業が始まった。それから、バビキンやヤヌクフスキなどの建築家はこの計画を直して、彫刻などを追加したので、建物はアールヌーヴォーの代わりに、ネオバロックという建築様式となった。1912年10月にこの劇場における初めてのオペラとなったのは、グリンカの「皇帝に捧げた命」であった。1917年10月26日に革命の翌日に劇場の舞台から新しい政策が発表された。劇場は早く有名になった。旧ソ連の時、この劇場を「オペラの研究所」と呼ぶようになった。エカテリンブルクでコズロフスキやレメセフなどの有名な歌手が活動していた。最近、劇場は中国、トルコ、ポルトガル、タイにツアに出張する。イタリア、ドイツ、アメリカ、韓国などの国と文化交流がある。有名な歌手は劇場の舞台でよく演じることがある。それから、様々なコンサートやフェスティバルも主催される。2008年にモスクワのボリショイ劇場もここで演じた。 

 

№ 26 

「アメリカ」ホテルマーリシェヴァ通り、68番地かつて営業していたホテルは、歴史的に町の中心部に存在している。ホテルの建物群はP.Kホールキンという商人の大きな屋敷の一部で、当時のザラトウストフキー通り(ロジリュムセンブルク通り)の起点の角、パクロフスキー大通り(現在はマーリシェヴァ通り)との交差点にあった。 1880年代頃、ホテルを除いて、住居、離れ、何かしらの機関、ビリヤード場、レストランそして商店が屋敷を構成する要素に加えられた。この建物全体は建物正面の芸術様式のため、折衷様式の時期の建築物に分類される。正面の装飾は古典主義的なそしてバロック的な飾りを欠いている。まさにこのホテルには、いつぞや、チェーホフやメンデレーフという偉人が投宿していたのである。1971年にはビリヤード場と塀が撤去された。1976年には門とレンガ造りの壁の大部分、そして増築部分と厩舎が取り壊された。住居とホテルをつないでいた部分を失ったことにより、この建物群の東部分と南部分との一体性が損なわれた。2005年にはホテルの建物とそれの西側部分に付随するレストランと商店を有する一階建ての建物が改修工事を受けた。建物内部の部屋の装飾は基本的にすべて失われたとはいえ、それらの建物の上に更に建て増しされた二階部分は隣接するホテルと肩を並べることになり、そのホテルと似た装飾が与えられた。 

 

№ 30 

キーボードの記念碑 プロジェクト立案者 A・ビャートキン キーボードの記念碑は、パソコンのキーボードを記念するエカテリンブルク初のランド・アート彫刻である。彫刻はイセチ川岸通りの2段に、ゴーゴリ道り方面に位置している。2005年10月5日に設置されたキーボードは、2005年に、「エカテリンブルクの長い物語」祭のために、アナトーリ・ビャートキンによって作成され、横行しているコンピュータ化の時代の象徴となった。本プロジェクトは、市民や観光客に人気が高いものの、記念碑または名所としてはまだ公式的に認められていない。それにもかかわらず、「キーボード」は、エカテリンブルクの非公式ガイドブックの多くに収録されている。IT関連のローカルコミュニティーは、このインフォーマルな彫刻をとても尊敬し、記念碑のことを「ナーシャ・クラーワ」(「我がキーボード」)という愛称で呼んでいる。